Takahashi Shunji

2010

12師走
SuMoTuWeThFrSa

2011

1睦月
SuMoTuWeThFrSa
2如月
SuMoTuWeThFrSa
3弥生
SuMoTuWeThFrSa
4卯月
SuMoTuWeThFrSa
5皐月
SuMoTuWeThFrSa
6水無月
SuMoTuWeThFrSa
7文月
SuMoTuWeThFrSa
8葉月
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9長月
SuMoTuWeThFrSa
10神無月
SuMoTuWeThFrSa
11霜月
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12師走
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2012

1睦月
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2如月
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3弥生
SuMoTuWeThFrSa

2015

1睦月
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2如月
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3弥生
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4卯月
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5皐月
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6水無月
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7文月
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8葉月
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9長月
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10神無月
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11霜月
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12師走
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2016

1睦月
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2如月
SuMoTuWeThFrSa
3弥生
SuMoTuWeThFrSa

作品について

一日の内、もっとも大きく景色の変わる日の出の時間を狙って海に出る。毎日同じ場所に立ち、狙いを定めて一度だけシャッターを切る。そのようにして作り上げた作品です。フィルムは切らず、長巻きのままの現像をお願いしました。それを、被写体の写っていない縁まで丸ごとスキャナーで取り込んでデジタル画像にしています。画像の外側の黒い縁は、フィルムの縁です。その黒い縁に振られたオレンジの番号や記号を読めば、フィルムの銘柄や、どこからどこまでが一本のフィルムの範囲かというのがわかっていただけるかと思います。縁からは、カメラに何を使ったとか、機械に不調があるかないかなど、推測できる場合もあります。

一本のフィルムで7~8枚撮っています。いろいろあって3~4枚しか撮ってないような時もあります。その場で確認ができないフィルムを用い、原則一日一シャッターに限定した撮影では、手抜きや未熟も、容赦なく写り込みます。それらも、ストリップを追っていけばあからさまになるでしょう。


2016年の1月終わりからの最後の一ヶ月は、新しい試みとしてポジフィルムに替えてネガフィルムを使いました。ポジと違ってスキャニングや絵作りで記憶にある色に近づけていく作業が要りますが、再現できたときには、ああ、自分はこれが欲しかったのか!実に感動しました。コントラストが平板になって、臨場感などが損なわれているように感じる場合もあるでしょうが、海の質感を捉え、輝度差のあるシーンも、飛ばず潰れず描写します。最近ではプロですら、カラーネガの描写に詳しくない人が少なくないのですが、現在のデジタルカメラでも、この絵は出てきません。

いつか、ネガを使った規模の大きな定点撮影をしてみたいと考えているのですが、需要がどんどんと縮小しているので、それまで供給が残っているかは微妙です。カラーネガの描写は、失われつつあります。


スライドショーは、ゆっくり動くように設定しました。ゆったりとした気持ちで、景色の変化を味わっていただければ幸いです。

2016年11月15日

※現在のところ、写真にマウスを乗せると日付のみが表示されないようになっていますが、近々、撮影時刻や気温も表示されるようにする予定です。

ゆるされざるもの(エッセイ)

デジタルになって、写真は大きく変わった。結果が、見た目がすべてになった。写真がフィルムだった頃、その芸術は文学の近くにいた。フィルムには、見えているもの以外にもいろいろと写り込む。様々な手順や状況が、そのフィルムのコマとコマの間に手がかりとして残る。もちろんそのような写真を読むには、写真の技術に対するある程度の知識と、そして人生におけるある特定の経験を必要とする。つまりはその分の深さが、相性があった。たとえ小さなゆらぎすら認められなかったとしても、逆にそのことで、それを可能にする経験や技術の積み重ねを想うことができた。しかし、デジタルは、それを意味のないものにしてしまった。その場で仕上がりが確認できる。何度でも撮り直しが効き、あとからいくらでも修正できる。撮影時に職人的な技術を用いること無く、しわもシミもきれいつるりんと消し去ることができる。写真は、意図した通りに仕上がり、見た通りのわかりやすいものとなった。粒子の荒れやブレも、単なるファッションになり、実際を超えた絵のような見栄えのする写真が量産されるようになった。ストレートフォトという言葉に、今も意味はあるのだろうか。かつてあったはずのフィルム写真の奥行きすら、さかのぼって消し去ろうとしている。写真は、見た目が100%の世界になった。


定点撮影の最初の数年でわかったのは、ままならない体のことである。毎日、もう何年も繰り返しているわかりきった手順なのに、失敗する。確かに、技術的に大変な時もあった。悪天候下の撮影は至難を極めた。雨が機材を濡らさぬよう、片手でBLUNT(強風に耐えられる傘)を持ち、油断すれば体を飛ばしてしまう海上の爆風に耐えながら片手でカメラの操作を行った。しかし、天候の変化に対応しきれない時だけでなく、何でも無い時にうっかりミスを犯すことが少なくなかった。「頭ではわかっているのに」。何よりも、体がついて行かず、その不調のせいで手順が抜け落ちてしまうことが多かった。早い朝は4時前に起床。14キロの機材を肩から提げ、駐車場から1キロの道のりを歩いてテトラを上る。昼間は働いていたし、他の作品も平行して進めていた。少しオーバーワークだったのだろう。しかしこれくらいのことができないでは作品を成就させることなど到底できない、なんとしても頑張り抜くんだと悲鳴を上げる体をむち打って、重い体を引きずって撮影地点まで運んでいった。

しかしその後の数年間でわかったのは、私の体は私のものではなく、しかも私以上のものであるということであった。私が制御できている部分は氷山の一角に過ぎず、逆に、そんな私は大きくゆったりとして、しかし絶え間なく流転する体の一部に過ぎない。そしてその体はさらに、決して今を取り戻すことのない無限の自然とつながっている。小さな<私>のアイデンティティー(同一であること)に執着することは、その無限の自然を区切り、限定することに他ならない。しかしもともとそこから由来している<私>である。行き過ぎた限定は、巡り巡って自らの首を絞めることになる。逆に、自分の声を小さくして耳を澄ませば、体はちょっとずつ心を開いてくれて、今まで聞こえなかった声を聞かせてくれる。そんな風にコミュニケーションが取れるようになると、今度は<私>自身が広がっていく。

スケールの大きな話の前に、実用レベルの話をしておこう。定点撮影の実践においても、あれもこれも<私>がやろうとすれば複雑な手順を管理しきれず、特に雑音の大きい時はなおさら、ミスが増えることになる。<私>のできることは小さいと知り、体に任せる。失敗するとすれば、それはまだ体の準備が整ってなかったのだ。やりよいようにお膳立てを整え、あとは体が自然に覚えるのを待つ。体は、私が制御する以上の複雑なことをいつも行っている。少しずつ<私>が監督する範囲は少なくなっていき、どんな時も、気を散らすこと無く仕事を果たすことができるようになる。

実際、そのような実践を続けていく内に、疲れた体が足を引っ張るということも徐々に無くなっていった。ちなみに、中国で時間をかけて積み重ねられた知恵、太極拳が、このような実践を助けてくれた。


トータルで2000日ほど朝の海に出た。中には想像をはるかに超えるスペクタクルもあった。今回展示した写真以前になるが、金属音にも似た重低音の咆哮、目には見えないけれども、とぐろを巻く龍が、いつもの定位置の上空に居座っていることが手に取るようにわかった朝。近づけば、必ずや命を奪われていただろう。綿にくるまれて、音までもミュートされる、世界は半径2メートルに限られた。私と私の足音以外のすべてが消え去った白い朝もあった。恐らく他の誰も見ていないだろう、朝4時台の虹、寒い時期の太陽柱、それらには何度も出会った。しかしどれほどの朝に出会おうとも、いつかと同じ朝には出会わなかった。明日の朝が私のものになることは決してない。

人間は、自然を制御し克服したかのようだ。しかしその人間は、そもそも自然から成り立っている。<私>の彼岸に、<私>を構成して作り上げた自然がある。<私>が扱うために限定される以前、境界を持たない原―自然、「自ずから然り」という字義通りの自然である。それを忘れて、検索できるアーカイブと手に取ることのできる意志のみで外界を構成しようとするならば、必ずや多くのものがこぼれ落ちる。フィルムがデジタルになった時に、コマとコマの間にあったものがこぼれ落ちたように。


現在進行形で、1と0とで区切られたデジタルの世界が加速している。手の中に世界とつながるコンピューターがあって、すべてを教えてくれる。それを介して、どんどんと<私>の領域が広がっているかのように思える。しかしそれは一方で、わかりやすい記号で構成されたものの領域に私を限っていることでもある。

人工知能が進化し、近々人間の脳を超えると噂されている。このまま行けば、脳をそっくりそのままチップに移し替える未来が来るんじゃないかなんてことを言う学者もいる。確かにそんな未来も夢では無いのかもしれない。ただそうなれば<私>が残ったとしても、私をこの世に連れてきてくれた、存在を超えた非限定の自然との関係は、途絶えることになるだろう。

いや、もちろんそのような時代には、既に<私>自体が100%コンピューター由来の構成物になっているのかもしれない。より大きなものはコンピューターの中にのみ存在する。無限の自然との関係が、機械の体となる以前に断絶している可能性は大いにありうる。そうなれば、脳がチップになろうとも、失われるものは何も無い。


しかしそんな時代になったとしても。朝が、過去のどんな朝とも適合しない無限の朝が、やって来る。

2016年11月15日

操作方法

  • 画面上下にある色のついた月をクリックすると、目的の月に飛ぶことができます
  • カレンダーの日付をクリックすると、ブラックアウトして写真が現れます。
  • 写真の上にマウスのカーソルを合わせると、写真の右下に日付が現れます。カーソルを写真から外せば、日付は消えます。
  • 写真の上下、暗くなった部分をクリックするとカレンダー表示に戻ります。
  • 画面両端にある矢印をクリックすると、写真が左右にスライドします。
  • 写真をクリックすると日付や矢印が消え、スライドショーが始まります。
  • スライドショーでは、日付の順に自動的に写真がスライドします。
  • 写真をもう一度クリックすると、スライドショーはストップします。
  • 写真がスライドしている間や現れている途中など、アニメーション途中には操作を受け付けないようになっています。