Takahashi Shunji

序章 神社・東京※写真をクリックするとギャラリーが始まります

【2006年・夏】3枚

操作方法

OVER 80 作品について

この試みを始めたのは今から9年前のことです。80歳以上の人々の、その人の生き様まで浮かび上がっていくような写真を撮りたい、そう強く思いました。親戚やつてを頼って、まずは身近な人から。話を聞きながら、その人の住処と共にフィルムに収めることを始めたのです。

しかし、向かい合った人々の強さ深さが表現できず、力不足を痛感。思うような写真が撮れなければ、被写体になってもらう方々にも申し訳が立たず、志はしぼんでいきました。十数人は撮りたいと思っていましたが、結局二年間、5人ほどで頓挫してしまいました。しかし、当時撮影したフィルムのコンタクトをあらためて眺めてみると、これをお蔵入りさせてしまうのは惜しいと思い、作品として構成することにしました。及ばずながらも長い年月を積み上げてきた方々の、その深さ、広がりを示唆するきっかけになれば幸いです。

写真は、フィルムのフチまで含めて印画紙にプリントしました。温黒調という柔らかい調子の出る印画紙を利用しています。それをスキャナーで取り込みました。

経緯・詳細

神戸の住吉に、大おば四人姉妹が木造平屋建てに住んでいました。彼女たちの生家は神戸の下山手にありましたが、空襲で焼け、戦後、住吉に家を建てたのです。姉妹の誰にも配偶者も子供もいませんでしたので、母や母の兄弟が一番の近縁でした。特に我が家が神戸に越してきてからは、距離的にも一番近い親戚だったので、年に何度かは顔を見せに行ったものです。電電公社で初の女性支店長に就任した三女が比較的早く亡くなって(といっても70代だったのですが)、その後、年寄り三人が暮らすその家では、われわれの家とは明らかに異なる空気が流れていました。もう長いこと若い人が住むことがなく、また、明治14年生まれの彼女たちの母親が101歳まで生きていたこともあって、昭和初期、あるいはそれ以前の人々の暮らしというのが色濃く残っていたのだと思います。歳の離れた末の妹ですら昭和以前の大正14年生まれ。特に明治36年生まれの長女の影響力が大きかったので、そのような傾向にいっそう拍車がかかっていたのでしょう。

とはいえ、異なる時代に生きた人、長い年月を積み重ねてきた人の生き様に私自身が深く興味を持つようになるのは、30歳を超えてからのことです。それまではただ、昔は今とは別の暮らし方があったということ、そしてまた、長女の竹江おばさんの存在感が強く胸に刻み込まれたくらいのことです。倹約家で、義を重んずる筋の通った人でした。彼女の義は「仁」に基づいていて、だから個性的な面々もひと声あれば従わざるを得ない重みを持ちながらも、清々しい後味を残しました。今の義は「利」や「我」に基づいていて、振り回されれば従わざるを得ないにしても、どこか不愉快で腹立たしい後味です。前者のような義は昨今見かけることが無く、まずは滅びたと言っていいのでしょう。

その竹江おばさんはまた、ちょっとびっくりするくらいの記憶力の持ち主で、会話など、話した本人よりも覚えていました。昔の記憶も鮮明で、米騒動のことなども事細かに話してくれたものです。残念ながら詳細は覚えていませんが、小商いをする立場からのもので、事柄に違いはないものの、歴史の教科書とは全く違う見え方のするものでした。

そんな大おばも90も半ばを超えるとさすがに近々の記憶に陰りが出てきましたが、それでも一般の人と同じくらい。逆に、以前自分で話した、自身でさえ忘れていた言葉を胸先に突きつけられるようなことがなくなったので、怖さが少し和らいだくらいです。しかしそんな鮮明な記憶の持ち主が、戦争のことについて話すことは一切ありませんでした。戦中・戦後に夫と一人息子を亡くしているのですが、夫は戦時中に病気で、兵役から帰ってきた息子は戦後すぐ火事で亡くなったという詳細は、本人からでなく、周りから聞きました。末の妹は戦時中の話をよくしましたが、竹枝おばさんはそんな時黙ってしまったし、一番気さくだった(僕は一番彼女が好きだった)やはり明治生まれの次女も、その妹の話に相づちを打つくらいで、自分のこととして話すことはありませんでした。そこに、表通りで話されていることとは違う次元の何かが封印されていたのだと確信したのは、私自身が語れないものをくるみこんだ三十半ばのことです。その頃すでに、長女と次女は亡くなっています。次女は震災の翌年に。長女はそれから何年かして99歳で。二人ともお風呂の事故で、突然でした。

語ることのできない何かというと、人は罪や不義や恥のようなものを考えます。あるいは封じ込めるしかない悲しみや怒りということになるでしょうか。自身に限らず、守りたい誰かの秘密であってもそうでしょう。しかし、そのような罪とか悲しみとかいう輪郭さえ与えられない語れなさがあります。それは、語れば語るほどに理解から遠ざかる類いのもの。お互いの理解を得るために発せられるはずの言葉が、誤解と疎外をもたらす働きをなすような事柄において、語りは封印されます。今の世を肯定するために創作されている「物語」が、人が人を理解する基礎となる。それに沿っておおよそのことは理解されるわけですが、そこから外れた事柄は、理解が誤解に変わるようなことが往々にして起こります。特に聴く力も時間も失った人相手では、少し文脈から外れただけでもあっけなく脱線します。そして現代の人々からは、その聴く力も時間も、どんどんと失われているように思われます。

ここで言う聴く力とは、ざっくり想像力と言い換えてもいいでしょうか。しかし想像力というと、その人の内側にあるもので構成される類いのもの(固い想像力と呼んでおきます)と了解されがちですが、聴く力に必要なのは、それとは別の仕方です。自分とは異なる生を生きる他者への配慮は、それまで自身の内になかったものを他者の内に発見することから始まります。未知の素材を得て新たに構成される想像力<物語>は、だから時間が掛かるのです。しかも他者は既知になることが無いため、<物語>は常に仮の状態のままで、不断に更新されることを要求します。ライブ<生きる>とはその様なことなのでしょう。

ところで「大きな物語」という言葉が、社会学の教科書によく出てきます。近代の夜明け、マスメディアの発達や大衆社会の成立と共に成立し、イデオロギーの対立の解消や高度消費社会の成立によって終焉を迎えたとされるもので、その時代の人々が自身の存在を確定する時に依拠する物語、内容としては時代的・思想的背景を多くの人々が共有していたということを説明するときに使われます。しかし、「大きな物語」は、特に戦中・戦後、その後の高度経済成長期には強く勃興したけれども、それ以前にはそれほど「大きな」物語ではなかったと、明治・大正生まれの人々、特に女性の語りと接して私自身は思うようになりました。大おばの存在をきっかけにし、この作品の制作過程で少ない人数ながらじっくりと話を聞いて感じたことです。年齢や性別もそうですが、地方に行くほどその物語から外れるのでは無いかという感触も得ています。

逆に、大きな物語は終焉を迎えたといわれる現代においても、人々をつなぎ止める紐帯としての物語は根強く持続していて、あらゆるものを網羅するという意味での大きさはないけれども、より多くの人々に影響するという意味での大きさはむしろ拡大しているのではないかと私は思っています。高度なテクノロジー、それ抜きでは考えられない生活というのは、見えないところで多くの人々の相互の関与を不可欠なものとしています。それらはどれ一つとっても、一人の手に負えるものではないからです。それらをつなぎ止めるシステムが物語=固い想像力として作動していて、人々はそこから外れたものにさえ内側に含めてしまう。自由な社会は、バリエーションに富んだ多くの種類の人々に対してふさわしい物語を用意していますが、逆にその外側に対する寛容性は失って硬直化しているように感じます。どんなにカテゴリーを増やしても、そこから外れる人は必ず出てきます。時代の移り変わりによっても用意されたカテゴリーからはずれが生じてきます。しかし人は、余りにも小さい個人は、それにあらがうことが難しいので、次第に自らその物語の構成員となって巻き込まれることを志願するようになります。

そこから導き出されるものに対して、人々は吟味しないままに即断する。今あまりにも近すぎて見え辛くなっているそれらの物語は、また後の世によって見いだされるとする考えは、もしかしたら楽観的に過ぎるのかもわかりません。


話が結果を求めて先走りました。とにかく私は、先の世代の人々に私の内にない無い叡智を感じ、それを知るために写真という手段を通じて接近を試みたのです。結果、ひとくくりにして語られてきたものとは、また違う語りを聴くことになりました。しかしそれは言葉をそのまま取り出すのでは、枝葉を刈られてありきたりの物語の中に組み込まれてしまうか、煩雑に過ぎて投げ出されてしまうのでは無いかと恐れるのです。彼らの物語、といっても私の視覚に写った手がかりを焼き直したものに過ぎませんが、意味のゆらぎをともなう写真で構成することに、今は確信を得ています。

2016年11月

第一話 塩谷克子 大正11年生まれ(1922)

【2006年・秋】8枚

【2006年・晩秋】6枚

【そうじゃない別の日に】6枚

私の大おばにあたる人物です。下関出身。冒険心旺盛で、その分の苦労も引き受けて、自分を通すためのしたたかさも身にしていました。十代から始まる冒険譚は、聞くほどに誰のどの人生にも似ていません。小さな花束に、いつも目と口を丸くして喜んでくれた。冷めることのない柔らかな心と、優しさに裏打ちされた厳しさの同居が芯でした。2011年に心臓の発作で亡くなりました。

第二話 中村信司 大正15年生まれ(1926)

【2009年・春】11枚

【2009年・春】17枚

【2009年・晩春】15枚

子供の頃は、神戸、生田のあたりに住まれていたそうです。書を嗜み、インターネットで見知らぬ相手と囲碁を打つ。自作の詩をコピー用紙に印刷し、それを裁断してちいさなちいさな「手のひら詩集」を定期的に発行されてました。孤独と悲しみ、反骨の棘を笑いにくるんで、腹に落ちることばで編まれた小編一部百円也。

第三話 福井敏子 大正15年生まれ(1926)

【2006年・晩夏】3枚

【2006年・秋】9枚

【2006年・晩春】8枚

【2006年・冬】11枚

詳細でも少し触れましたが、住吉に住んでいた大おば姉妹の末の妹になります。神戸の人らしく、朝はパンと紅茶で始めていました。高度消費社会が訪れる以前の、質素で堅実な暮らしぶりとはどういうものなのかを教わりました。その実際は、今の人には度を超しているとすら感じられることでしょう。若い頃に肺を病み、骨を失って腰が曲がり、それ以降多くを望まず暮らしてきました。10年ほど前に施設に移り、残された古い家には、今私が一人で住んでいます。

第四話 南嶋一郎 大正14年生まれ(1925)

【2009年・春】13枚

【2009年・春】6枚

西宮、宝塚で牧師をされていました。特攻隊員だった時のお話、滑走路が空襲に遭って予定が後になり、自分たちの後に飛ぶはずだった年下の部隊が先に空を飛んだくだりにさしかかった時、涙ぐまれました。同じ部隊の人たちと共に写った写真を見せてくださいました。その8人のうち7人までが「坊主になった」(神父、牧師、僧侶)そうです。玉砕を奨励した戦時のあり方に嫌悪と怒りを示されましたが、旭日旗のステッカーを貼ったホンダのスポーツカーを70代まで運転されてました。

第5話 藤永久子 大正12年生まれ(1923)

【2006年・秋】7枚

【2006年・秋】14枚

【2006年・初冬】15枚

【2007年・春】9枚

出雲のご出身。比較的早い時期に、夫が家を出てしまいました。突然に収入が途絶え途方に暮れる中、伊丹の自宅でピアノ教室を開くことで光明を見いだし、女手ひとつで二人の娘さんを大学にまで送り出しました。好奇心旺盛、いつも朗らかで、人の為に力を惜しまぬその姿勢、多くの人に慕われています。高齢になり、体がきかなくなって舞い戻った夫を受け入れ、最後まで看取りました。ここまで優しく寛大な人を、私は他に知りません。